山上碑・金井沢碑を愛する会

国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」である山上碑と金井沢碑の二碑が所在する高崎市南八幡地域(山名町・木部町・阿久津町・根小屋町)の住民で二碑の価値と郷土愛を深めるために2017(平成29)年7月30日に結成した『山上碑・金井沢碑を愛する会』のブログです。

これは碓氷峠でもあったろうか、加賀の殿様がカゴに乗ってあたりの風物をカゴの窓からながめていると、ツーンといいにおいが鼻にきた。

「これこれカゴを止めよ!」

殿様の声に、カゴが止まるとおつきの侍が、カゴのそばにより、「お召しにございますか」、

「そうじゃ、いま何ともいえぬタバコのいい香りがした。たれぞそこいらで、吸っているものはないか、調べてみよ」、さっそくかしこまって侍がこのあたりを捜すと、紅葉の下かげに老人が、うまそうにタバコを吸っているのを発見した。

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「これこれお前か、タバコを吸っていたのは」

「これは、これは恐れいります。何とぞごかんべんを」

「いやいやとがめているのではない、殿様が聞きたいことがある様子だからついてまいれ」

老人が恐る恐るおカゴの前に土下座すると、「そのタバコいっぷく吸わせてみよ」と取り上げて吸ってみると、えもいわれぬ香りに殿様もすっかりご満足、「その方の持っているものをみな買い取ってつかわすぞ」、「ありがとうございます。これは私が働いた賃金の代わりにご主人からもらって来たもので、ここで大金になるとは、何ともありがとうございます」と老人は三拝九拝して礼をのべた。

「このタバコはどこで求めた」

「ヘエー。わたくしは越後の者で上州に出稼ぎにきて、山名の光台寺という寺で作男をしてタバコ製造にも働いていたものでごぜえます」と答えた。

殿様のおカゴはやがて碓氷峠を去ったが、タバコ呑め呑め空まで煙せ、どうせこの世はしゃくのたね、 煙り、煙り、煙れよ いっさい合切みな煙れ。 

これはカルメンが歌ったタバコの歌であるが、殿様もカゴの中で、光台寺タバコを空までけむれと大いにふかしたことであろう。

これはのちの話であったが、この殿様が江戸城で、このタバコを三代将軍家光将軍に献じたところ、将軍も、これは珍しいうまいタバコだと嘉納あって、光台寺にタバコを献納するよう伝達があり、光台寺の住職相阿弥陀仏はその光栄にこおどりして喜んだ。

    富士よりも高き山名の煙り草

    御治世のたては煙草にのむ計り

    応仁の戦ひ紙とたばこなり

これは川柳であるが、応仁の乱(1467年-1477年)が細川勝元(細川紙)と山名宗全(山名煙草)との戦いであったことに名産をしゃれたものであり館(たて)の煙草とは山名光台寺の西方3里の地が、片岡郡館(かたおかぐんたて/高崎市)で、ここにもたくさんタバコが製作され、館タバコとして知られていた。

   受け出され館というもののみならひ

  上州の館の煙草屋地切りにし

このころの女郎は薩摩のような上等品をのんでいた。吉原から見受けされれば上等はのめず館タバコを買ってのみ習った。館タバコは一般庶民用で上等ではなかった。

このように山名タバコは天下にその名を知られるようになったが、その耕作は相阿が人知れず苦心した結果によるもので、相阿が元和年間(1615年-1624年)片岡の里 館の佐藤家を訪れて、タバコの種子を譲り受け、寺の庭に植えたのがはじまり。境内の欅(けやき)の落ち葉などをしき込み苦心したため、薩摩産と比較されるまでに良質の葉がつくられ、このころは皆きざみにして売られ、これを切り粉といった。

他の伝記によると相阿弥陀仏は、のちに下野那須郡馬頭に移り、時宗香林寺の第三世住職となり、那須郡におけるタバコ創栽の恩人であるとも伝えられ、相阿の影像と伝えられるのが馬頭院に残っている。木彫立像は彩色され二尺四寸ばかりのもので、眉ひいで白髪を垂らし、やや堅い禅的な合掌をして、胸に袈裟文庫(けさぶんこ)ようの箱をかけているが、これがタバコの種子をいれたものだと伝えられる。墓地は旧光林寺裏山にあり、当山三代住相阿弥陀仏ときざまれている。

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山名の光台寺は正慶二年(1333年)の創立で、宝暦年中(1758722日)落雷のため焼失したのを第24代淳悦和尚が再建する。現在のものは明治百年記念(1968年)に改築された本堂である。

 参考文献:「上州の史話と伝説」

文・・・・・ 井野英代

原画・・ ・ 富岡吉次

彩色・・ ・ 今野雪江、城田尊子、清水泰代、坪川初代

この物語は、昔から木部町の人々によって語り継がれてきた伝説をもとにしたお話です。

日本中が戦争に明け暮れていた頃(戦国時代)、木部にもそんなに大きくはないがお城がありました。その木部のお城も敵の攻撃を受けるようになりました。 身の危険を感じた殿様は、奥方と腰元たちを城から逃がしました。 その後の奥方や腰元たちの運命はどうなったのでしょうか。

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【№1の物語】

むかしむかし今から約450年くらい前、京の都には将軍さまがいらっしいましたが、もはやあまり権力がありませんでした。そこで地方の国々では、大きな城の殿様、小さな城の殿様、豪族にいたるまで、すきあらば相手を滅ぼし自分が殿様になうと、そして天下を自分のものにしようとしている戦いが絶えませんでした。上野国(こうずけのくに)の周りには越後(新潟県)の上杉謙信と甲斐(山梨県)の武田信玄という強い武将が二人おりました。


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【№2の物語】

甲斐の武田信玄は上野の国を手にいれようと、時には安中あたりまで兵を進めることがありました。それを知った箕輪城(箕郷町)のお殿様の長野業政は、ただちに12人いる姫を一人ずつ近隣のお城にお嫁にやりました。このあたりでは鏑川の南の平井城、烏川の北の倉賀野城、和田城、そして木部城です。それぞれ12人の姫君がお城の奥方になれば、12のお城がみんな親戚になって力を合わせて敵を追い払うことができるのです。だから武田信玄の大軍が押し寄せてきても大丈夫だと、長野(箕輪)の殿様は考えたのでした。

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【№3の物語】

ここは木部のお城です。今日は木部のお殿様と箕輪城からお嫁に来た長野姫様との婚礼の日です。お城では華やかな結婚のお祝いが催され、家老をはじめ家来や腰元たちは、大忙しです。奥の間からお出ましになられるお姫様のお姿を一目見るなり、人々は「まるで天女が舞い降りたようだ。」とその美しさに見ほれました。「木部姫様と呼ぼう。」と誰ともなく言い合いました。

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【№4の物語】

立派な婚礼の儀式も無事に終わりました。木部城下ではお殿様と美しいお姫様を中心に、以前にも増して平和な暮らしが始まりました。お殿様と木部姫様との生活は人も羨むほどのなか睦まじさでした。しかし、そんな二人の幸せな日々は長くは続きませんでした。ついに武田信玄が山名、根小屋のとりでを落として、木部城に攻めてきたのです。力の限り戦いましたが、小さな城の悲しさ、信玄の大軍にはかないません。木部軍のあらかたは討ち死にし、生き残った兵も負傷したり、ちりぢりになってしまいました。

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【№5の物語】

お殿様は奥方とわずかな腰元たちを呼び「もはや城もこれまで…。今宵、夕闇に紛れそなたの里まで落ちのびてくれ。箕輪城はまだ安泰じゃ。」と姫に言いました。「殿と今ここで別れたら、二度と合えないような気がします。お願いです、殿と一緒にこの城にいさせてください。」泣く泣く姫が頼んでも聞き入れてはもらえませんでした。お殿様は「余もそなたと別れるのはこの身をひきさかれるぐらいつらいのじゃ。もし運良く生き長らえたら、また仲良く暮らそう。」とおっしゃいました。

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【№6の物語】

お城周りが夕闇に包まれ始めた頃、すっかり旅支度になった姫様は、腰元たち数名を従え木部城を後にしました。川を渡り倉賀野を過ぎ、和田城下に入ったが、途中どこの角にも武田方の兵たちが見張っていて大きな道は通れませんでした。人の通れないような狭い道を通りぬけ、やっとのことで芝村(箕郷町)というところまで来ました。一人の腰元が「姫様、ここまで来ればお城はあと少しです。」姫が「弟たちに早く会いたい…」と話しながら、かなたの箕輪城をふりあおいだとたん「ああ…もう駄目。」姫はその場によろよろとくずれてしまいました。

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【№7の物語】

あの懐かしい故郷のお城が、真っ赤な火の粉をまき散らしながら燃えていたのです。真っ暗闇の中、燃え上がった箕輪城を目のあたりにした姫は「もう私の帰るとみろはありません。」腰元たちも「姫様どうしましょう。何処へいきましょう。」と途方にくれるのでした。深い悲しみに打ちひしがれ、行くあてもなく山中をさよい歩く姫と腰元たち。木々の枝葉やつるをかき分け、雑草の生い茂る中をどのくらい歩いたでしょうか。空の雲は吹き流れ、地上に這っていたもやも、だんだんととれてきました。

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【№8の物語】

東の空が茜色に染まりはじめました。姫たちは榛名湖のほとりにいました。朝日に輝く湖面はキラキラと七色の帯をいく筋も流し、榛名富士がくっきりと映っていました。姫と腰元たちは芝村で見たあのいまわしい光景は心の奥にしまいこみ、穏やかな湖をしばし眺めるのでした。木々の間から小鳥たちが歌いだしました。姫が「なんとさわやかな朝でしょう。これが榛名湖、あれが榛名富士、もう何も思い残すことはりません。」と、つぶやいたかと思うと、旅支度を解き、着物の裾をひき、湖の中に入って行きました。「姫様ーあぶのうございます。お戻り下さいませー。」と、腰元たちが止めるのも聞かず、静かに水の中に入って行きました。腰元たちはただおろおろするばかり。

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【№9の物語】

と、その時です。今まで雲一つなく晴れ渡っていた空がにわかにかきくもったかと思いきや、ピカッー!ゴロゴロドッシーン!と、ものすごい雷が鳴り突風が起こりました。鏡のように静まりかえっていた湖面には、竜巻が起こり、みるみるうちに姫はその真ん中にのみこれ、天高く持ち上げられたかと思った瞬間、巨大な竜の姿に変わり「ぎゃー!」と、一鳴きしたかと思う間もなく湖の底深く沈んでいきました。

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【№10の物語】

 あまりの恐ろしさに腰元たちは声も出さず、ガタガタ震え、抱き合っていました。いつしか雷鳴も止み風もおさまって太陽が輝きだしました。「姫ー、姫ー、木部姫様ー」我に返った腰元たちは湖畔をあちこち走りまわっては、姫の名を呼びましたが、帰って來るのはこだまばかり。「姫様がこの湖の底にいるかぎり、私たちも姫様のお側にお仕えしなければなりません。」と、一人が言うとみんな次々と湖に身を投げました。竜になった姫様を探す腰元たちは蟹になって「腰元蟹」と呼ばれました。腰元蟹は今でも湖水の藻を取ったり、落ち葉をめくったりして木部姫様の姿を探し求めているので、湖はいつもきれいなのだそうです。

【参考資料】「みなみやはたの歩み」第3集 (紙芝居「木部姫さま」について)・(木部姫さま)

  令和6925()午前9時から、山上碑において「山上碑・金井沢碑を愛する会」、「上野三碑ボランティア会」、高崎市役所文化財保護課職員等18人による清掃作業が行われました。

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令和6(2024)年8月11日(日) 南八幡ふれあい館を会場に開催された、第31回南八幡地区納涼祭で「上野三碑かるた大会」が16組24人が参加して開催されました。

令和6710()午前9時から、山上碑において「山上碑・金井沢碑を愛する会」、「上野三碑ボランティア会」、高崎市役所文化財保護課職員等20人による除草・清掃作業が行われました。なお、作業の様子は、18時の群馬テレビ ニュースジャスト6「上野三碑ボランティア団体が共同美化作業」で放映、また7月11日付の上毛新聞に「山上碑の美化活動に汗」と題してして掲載されました。

藤岡古墳公園
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七輿山古墳
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 万葉集巻143415 

 上毛野 伊香保の沼に 植ゑ小水葱(こなぎ) かく恋ひむとや 種(たね)求めけむ 
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 伊香保ろの岨(そひ)の榛原(はりはら)我が衣に着きよらしもよ一重と思へば 

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 万葉集巻143419 

 伊香保せよ 奈可中次下(なかなかしげに) 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも

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令和6年3月10日(日)午前9時から午後3時まで、上野三碑ユネスコ「世界の記憶」登録6周年「一般公開」が行われました。この一般公開は、多胡碑の碑文中の和銅4年3月9日にちなみ、毎年3月9日に近い休日に実施しているものです。
なお、当日の見学者は、山上碑170人、金井沢碑154人、多胡碑402人でした。


山上碑一般公開
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金井沢碑一般公開
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多胡碑一般公開
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令和633()午後2時から、南八幡公民館において「山上碑・金井沢碑を愛する会」主催による「特別史跡としての上野三碑」講演会が講師に群馬県地域文化研究協議会会長の前澤和之先生をお招きして開催されました。

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開  会
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会長挨拶
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前沢講師の講演
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前沢講師と来賓及び役員
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 【講演内容概略】  

1、歴史資料としての意義 (1)日本最古の石碑群 

2、特別史跡が集合 (1)史跡名勝天然記念物保護法による指定 (2)ユネスコ「世界の記憶」登録

3、上野三碑から見えてくるもの (1)特別史跡として (2)記憶の定点 (3)日本の石碑文化の原点

4、金井沢碑の注目点 (1)山上碑との関係 (2)碑文ー知識結、石文 (3)鑑真和上と石碑

5、石碑文化を考える (1)石碑の特性 (2)碑文記載

高崎市では2023年度から2027年度までの5ヵ年で、山名八幡宮から少林山達磨寺まで続く高崎自然歩道(全長22)の再整備に着手しました。現在の山名城址周辺を樹木の伐採状況です。

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山名城址
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城址北側の伐採状況
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城址北側堀切りの伐採状況
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北側堀切より城址を望む
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東側堀切の伐採状況
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山上碑当番の皆様
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金井沢碑の建立は「神亀三年丙寅二月廿九日」(726229)

金井沢碑は、三家(みやけ)氏を名乗る一族が先祖を供養し、仏に仕えることを誓い合うために建てられました。碑文には、「二月廿九日」という日付が刻まれています。

このために令和6229日は、金井沢碑建立1,298年の記念すべき日です。「山上碑・金井沢碑を愛する会」では、会員が金井沢碑の東屋において午前10時から午後3時まで、来場者に御朱印状の配布や接待を行いました。

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山上碑・金井沢碑を愛する会では、令和6年3月3日(日)に「特別史跡としての上野三碑」と題して群馬県地域文化研究協議会会長の前澤和之さんによる講演会を開催します。

当会では、上野三碑の世界の記憶登録後、講演会を続けて開催してきましたが、コロナ禍で中断し4年ぶりの開催となります。

 開催日時 令和6年3月3日(日)14時から15時30分

 参加費  無料

 開催場所 南八幡公民館

 募集方法 電話で南八幡公民館(027-346-5587)へ(21日から222日まで)

 募集人員 50人(先着)

詳しくは、パンフレットをご覧ください。

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山名地区の古墳は、6世紀・7世紀のもので、古墳時代の後半から終末にあたる。

 ①6世紀前半~中頃に山名15号墳など小規模古墳からスタートする。

 ②6世紀終末に烏川西岸で初めての前方後円墳(伊勢塚古墳 全長70m)が成立する。  

  ※この地域が急激に経済成長。佐野三家が置かれてヤマトから技術が流入する。

 ③7世紀前半に、丘陵部に山上古墳・山上西古墳が造られる。

 ④7世紀後半に、黒売刀自が山上古墳に追葬され、長利によって山上碑が建てられる。
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《1・2期》

6世紀前半から中ごろに山名15号墳(帆立貝式古墳)、16号墳、17号墳、62号墳、原口1遺跡2号墳、河原1号墳など小規模古墳から造営がスタートする。  (史跡地以外も含む、以下同じ)

1・2期

15号墳帆立貝式、全長25m、横穴式石室

16号墳円墳、直径14.5m、不明(削平)

17号墳円墳、直径11m、袖無型横穴式石室

19号墳不明、横穴式石室

62号墳円墳、直径9.5m、横穴式石室

原口遺跡2号墳円墳、直径25m、横穴式石室

河原1号墳円墳、両袖型横穴式石室 

《3期》

6世紀終末に烏川西岸地域で初めての前方後円墳(山名伊勢塚古墳。65m、2段盛土)が築造される。山名伊勢塚古墳の被葬者は佐野三家設置以前に山名地域を支配していた地方豪族と推定される。6号墳、7号墳、10号墳、11号墳、18号墳、61号墳、原口遺跡1号墳もこの時期に造られた。

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6号墳円墳、直径約18m、横穴式石室

7号墳円墳、両袖型横穴式石室

10号墳円墳、直径約25m、横穴式石室

11号墳円墳、直径12.5m、小穴式石室

18号墳円墳、直径10.5m、両袖型横穴石室

61号墳円墳、直径12m、横穴式石室

伊勢塚古墳前方後円墳、全長70m、両袖型横穴式石室

原口遺跡1号墳円墳、直径16.5×15.5m、両袖型横穴式石室 

《4期》

7世紀前半に、丘陵部に山上古墳(650年頃)・山上西古墳が造られる。また、7世紀後半に、黒売刀自が山上古墳に追葬(681)され、息子の長利によって山上碑(墓碑)が建てられる。5号墳、9号墳、13号墳、20号墳、原口遺跡2号墳もこの時期に造られた。

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5号墳円墳、直径35m、不明 

9号墳円墳、直径18m、両袖型横穴式石室 

13号墳円墳、直径24.5m、不明(削平) 

20号墳円墳、直径13m、両袖型横穴式石室

原口遺跡2号墳円墳、直径16.5m、両袖型横穴式石室

 参考資料:山名古墳公園協議会資料

令和629() 午前10時から、山上碑及び金井沢碑を愛する会会員及び市職員により山名古墳群に古墳表示柱を設置しました。

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令和6年2月7日(水) 午前10時から「山上碑・金井沢碑を愛する会会員」及び「市文化財保護課職員」が、山名古墳群17基の表示柱を作成しました。
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令和6124()午後2時から南八幡ふれあい館において、南八幡地区各種団体・機関等から117人が参加して、南八幡地区新年初顔合わせ会が開催されました。

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来  賓

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高崎市長挨拶

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講演会:南八幡おもしろ歴史散歩

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閉  会

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高崎市では2023年度から2027年度までの5ヵ年で、山名八幡宮から少林山達磨寺まで続く高崎自然歩道(全長22)の再整備に着手しました。このため現在、樹木の伐採作業中ですが、戦国時代の山城である根小屋城址周辺では樹木約400本が伐採され、市街地や赤城山、県庁庁舎などをくっきりと望む景観がよみがえっています。

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根小屋城址周辺
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根小屋城址からの眺望
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令和6年1月14日(日)、令和6年高崎市木部町どんど焼きが、同町地内の圃場で行われ、町内240世帯700人の住民の健康と安全を祈願しました。

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山上碑及び金井沢碑のあずま屋に下記パネルを設置します。
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