山上碑・金井沢碑を愛する会

国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」である山上碑と金井沢碑の二碑が所在する高崎市南八幡地域(山名町・木部町・阿久津町・根小屋町)の住民で二碑の価値と郷土愛を深めるために2017(平成29)年7月30日に結成した『山上碑・金井沢碑を愛する会』のブログです。

前橋市総社町の日枝神社境内にある史跡「山王塔跡」は、大正10年に塔心礎が発見され、ここが初期の寺院跡であることがわかり、地名にちなんで「山王廃寺跡」と名付けられました。塔の心礎は一辺14mの方形基壇の中央を掘り凹めた中に置かれ、東西3m、南北2.5m、厚さ1.5mという巨石を加工したものです。心礎のほぼ中央には、径65cm、深さ18cmの孔と30cmの舎利孔との二段の孔がうがたれている。径108cm溝があり、ここから放射状の溝が東西南北の方向をさして刻まれている。塔の心柱の太さは環状の溝内縁に合致するものであろうか。寺院建立時期は、出土瓦などから七世紀末の白鳳期頃と考えられています。1928(昭和3)年2月7日「山王塔跡」で史跡指定され、2008(平成20)年に指定範囲が追加され、「山王廃寺」に名称変更される。

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日枝神社
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石製鴟尾・塔心柱根巻石覆屋
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説明板
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石製鴟尾・塔心柱根巻石

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塔心礎覆屋
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塔心礎(五重塔の基礎部分)
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山王廃寺主要伽藍推定復元図

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今から約1300年前、全国的にも稀にみる豪壮、華麗な寺院がこの地に建てられた。今でも創建当時、寺院の屋根を飾った石製鴟尾、塔の中心礎石、塔心柱根巻石などが残っています。

令和7年度連絡員会議 令和7510()1330分から、南八幡公民館において山上碑・金井沢碑を愛する会令和7年度連絡員会議が開催されました。今回の連絡員会議は総会を兼ねており、4件の議案が提出され可決されました。

 可決議案

1 議案第1号 令和6年度事業報告

2 議案第2号 令和6年度収支決算・会計監査報告

3 議案第3号 役員改選()

4 議案第4号 令和7年度事業計画()及び収支予算()

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開 会
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会長挨拶
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山上碑の大児臣は総社古墳群被葬者 「松田さんの新説」 

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 上野三碑の一つ「山上碑」に登場する『大児臣』が、前橋市の総社古墳群を構成する方墳「宝塔山古墳」か「蛇穴山古墳」の被葬者の可能性があると、群馬地域文化振興会の松田猛理事が、藤岡歴史館で開かれ講演で指摘した。本県考古学の父とされる尾崎喜左雄(1904年~78)の定説に敬意を払いつつ、別の視点から新説を提唱した。

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 人名表記の構造に注目

 講演で松田さんは、碑文に登場する新川臣や大児臣が、尾崎説でそれぞれ、赤城南麓の新里地区の新川と勢多地区の大胡の豪族とされたことを紹介。両地区には終末期の有力古墳があり、「碑文の内容によく合致しており、長らく定説になってきた」と解説した。

 しかし、同碑の人名表記を検討した結果、建守命や斯多々弥足尼、黒売刀自、長利僧は「個人名+尊称」という構造になっており、「新川や大児は名前であり、赤城南麓と関連づけるのは当たらない」考えるようになった。

 碑文に登場する「放光寺」は、文字瓦の出土から、前橋市の山王廃寺であることが明らかになっており、同寺は石材の加工技術の共通点などから、総社古墳群との関連が従来から指摘されている。他の古墳群の築造が終息する中で、ひとり圧倒的内容の方墳を3(愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳)続けて築いており、当時の上毛野に君たる大豪族だったことが分かっている。

 これらを踏まえ松田さんは、長利僧の父の大児臣は、同寺を造立した総社古墳群の勢力であるとし、「大児臣が宝塔山古墳か蛇穴山古墳の被葬者である可能性が出てきた」と結論付けた。

 母の系譜を今に伝える

 新説が成立するならば、黒売刀自が総社古墳群に葬られなかったのは大児臣の正妻ではなかったからと推測でき、実家の墓である山上古墳に追葬されたことも納得できる。長利僧は庶子として仏門に入り、放光寺僧となった当時数少ない文字を読み書きできるインテリだったのだろう。母の輝かしい系譜を碑に記し、千年以上経た現在まで誇らしげに伝えている。

  この説について、下記の疑問が提起されています。

 1 当時の埋葬方法は、夫婦合葬であったのか?

2 平安時代中頃までの結婚は夫が妻の家に通う「妻問婚」と言われる。また子供の養育は妻の実家が行っていたという。この点については如何でしょうか?

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七輿山古墳
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万葉集巻143435

 伊香保ろの岨(そひ)の榛原(はりはら)我が衣に着きよらしもよ一重と思へば 
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万葉集巻143415 

 上毛野 伊香保の沼に 植ゑ小水葱(こなぎ) かく恋ひむとや 種(たね)求めけむ 
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万葉集巻143419 

伊香保せよ 奈可中次下(なかなかしげに) 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも
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宇治橋碑「宇治橋の架僑を祈念する石碑」建立年:大化2(646)
1・宇治橋

山上碑「亡き母の供養碑」建立年:辛己歳(681)
2・山上碑

那須国造碑「那須直韋提の事績顕彰する石碑」建立年:庚子年(700)
3・那須国造碑

多胡碑「建郡記念碑」建立年:和銅4(711)
4・多胡碑

金井沢碑「仏教による一族の絆を誓う石碑」建立年:神亀3(726)
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仏足石「お釈迦様の足跡を彫った石」建立年:天平勝宝5(753)
6・仏足石

仏足跡歌碑「仏足石や仏教を讃える歌を刻む石碑」建立年:不明(753年又は770年といる説あり)
7・仏足歌碑

多賀城碑「多賀城の創建と改修を伝える石碑」建立年:天平宝字6(762)

I8・多賀城碑

 高崎市吉井町黒熊にある高崎市指定史跡「入野碑」は、明治221889)年の町村制施行の際、多比良・黒熊・小串・石神・深沢・中島・馬庭・小暮・岩井の九ヵ村が合併して入野村となったのを記念して吉井町黒熊にある奥浅間の山頂に建立されたものです。

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碑の「入野」とは万葉集の歌にちなんで付けられたもので、碑文には三首の歌が刻まれています。

       「我が恋はまさかも悲し草枕多胡の入野のおくもかなしも」

       「葛の葉を吹く夕風にうらふれて多胡の入野に鶉(うずら)鳴くなり」

       「露深き多胡の入野の草枕ぬるともこよいまたやむすばん」

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  令和739()9時から15時まで、上野三碑ユネスコ「世界の記憶」登録7周年、「一般公開」が行われました。

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【碑文】 9112文字

上野国群馬郡下賛郷高田里

三家子為七世父母現在父母

現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加

那刀自孫物部君午足次刀自次若

刀自合六口又知識所結人三家毛人

次知万呂鍛師磯マ君身麻呂合三口

如是知識結而天地誓願仕奉

石文

  神亀三年丙寅二月廿九日
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上野国群馬郡下賛郷高田里に住んでいる

三家子が、先祖と父母の為にいま主婦の

立場にある他田君目頬刀自、その子供の

加那刀自、孫の物部君午足、妹の爪刀自、

その妹の若爪刀自のあわせて六人、また既に

仏教の教えで結ばれている三家毛人、その弟の

知万呂、鍛冶師の磯部君身麻呂のあわせて

三人が仏の教えにより、一族の繁栄を願って

お祈り申し上げる石文である。

       神亀3(726)229

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 今から1344年前に建てられた、山上碑は完全な形で残っているものとしては、日本で最も古い石碑です。
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碑文(453文字)

辛己歳集月三日記

佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此

新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児

長利僧母為記定文也 放光寺僧 

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681103日記す。

佐野にあったヤマト政権が直接支配

していたミヤケの最初の管理者である

健守命の子孫の黒売刀自が、新川臣

の子の斯多々弥足尼の子孫である

大児臣に娶いで産んだ子どもである

長利僧が、母の為に書いた文である。
私は放光寺の僧です。

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上野碑は、歴史学の資料として超一級です。私たちの国が「日本」という国号、大宝に始まる「元号」、律令という「法制度」を整え、飛鳥の都から奈良の都に遷都していく、まさに日本が誕生する時代に生まれた石碑です。 3月9日(日)は、「一般公開日」です。是非見学に訪れて下さい。
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山上碑・金井沢碑を愛する会

元号は中国王朝で生まれたもので、最初の元号は前漢・武帝の「建元」(BC140年)です。元々の元号は、中国皇帝が天から全世界の統治を委託されたという考えから生まれたものです。したがって、中華王朝に服し属する諸国も中華王朝の定める元号を使わざるをえませんでした。これを「正朔を奉ずる」と言います。現に中華王朝に接していた高句麗百済新羅などの韓半島の諸王朝は中華王朝の元号を使用し続けました。それに対して、我が国は、国号が「日本」と大唐帝国に認められた時に、独自の元号を認められました。(新唐書)その国際的に認められた最初の元号が「大宝」701年)です。それ以前には元号がなく、干支で年を示しています。このことを端的に示しているのが「上野三碑」で、大宝以前の「山上碑」「辛巳歳」681年)と記し、大宝後の「多胡碑」「和銅年」711年)、「金井沢碑」「神亀年」726年)と記しています。このように、上野三碑は日本における元号の歴史を語る最も古い石碑なのです。

令和7122()午後2時から、南八幡ふれあい館において、115人が参加して「南八幡地区各種団体・機関等新年初顔合わせ会」が開催され、当会から副会長及び事務局の5名が出席しました。

受 付
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主催者挨拶
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来賓挨拶
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来賓挨拶
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来賓挨拶
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来賓挨拶
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講演会(ヨロコンデぶっちの笑う門には福来るやで~)
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閉会の言葉

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令和7年1月12日(日)午前9時30分から、木部町どんど焼が行われました。
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平成305月より「山上碑」覆屋に設置された「英語」及び「日本語」の解説放送文です。
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 Commentary Yamanoue  Stela
 TheYamanoue stela, erected in 681, is the oldest stela that remains standing inJapan.
 According to its insecroption, Priest Chorierected the stela in memory of his mother. The
inscription notes his matrilineal and patrilineal ancestors which suggest he wanted to express his
pride in being the priest of a major Buddhist temple and also a descendant of such influential
families.
 This stela documents how Buddhism and the Chinese writing system were adopted and  accepted by Japanese society in ancient times.
 Due to its  outstanding value in confirming the
transfer of cultures within Eastern Asia, the
Yamanoue Stela was designated in Japan as a Special
Historic Sitein 1954, and recorded on the UNESCO
register of Memory of the World in 2017.


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 【日本語の解説文】
 山上碑(やまのうえひ)は 飛鳥時代の天武天皇 10年 西暦681年に 放光寺(ほうこうじ)というお寺の僧である 長利(ちょうり)が 亡くなった母親「黒売刀自」(くろめとじ)のために建てた石碑です。
 完全な形で残っているものとしては 日本で最も古い石碑です。
 輝石安山岩(きせきあんざんがん)の自然石でできており 高さ111センチ正面の平らな部分に 縦書きで4行 53文字が記されています。
 自然石をあまり加工せずに使用しており 古代朝鮮半島 南東部にあった国 新羅(しらぎ)の石碑に 似ているものがあります。
 碑文には  放光寺の僧 長利の両親の系譜も 記されており 母親は 古墳時代 ヤマト政権の直轄地である「屯倉」(みやけ)を治めた豪族の子孫であることがわかります。
 前橋市総社町にある 山王廃寺で 「放光寺」の文字を刻んだ瓦が発見されたことなどから 長利がいた放光寺は この山王廃寺であると 推定されています。
 放光寺は 東国有数の大寺院であったといわれ 仏教は 先進的な技術や文化を伴って伝わったことから 長利はかなりの知識人であったと 考えられます。
 山上碑には 長利が母である黒売刀自を供養するとともに 上野国の有力豪族の子孫であり 大寺院の僧でもある自らの存在を 後世に伝える目的があったと考えられています。
 碑文は すべて漢字で書かれていますが 日本語の語順で読むことができます。現在につながる 日本での漢字の使い方を見ることができる たいへん貴重な史料でもあります。
 山上碑からは 中国大陸や朝鮮半島から伝わった石碑文化 漢字文化や仏教信仰が 日本の古代社会に根付いていく様子を 知ることができます。
 山上碑は 東アジアの文化交流の様子を示す 重要な歴史資料として 1954年に 特別史跡に指定され 2017年には ユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
【約3分】約700字

平成305月より「金井沢碑」覆屋に設置された「英語」及び「日本語」の解説放送文です。
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 Commentary Kanaizawa Stela
 The Kanaizawa Stela Was erected in 726 by the Miyake Family in honor of their family  and in
the memory of their ancetors.
 The inscription lists the names of nine members of the Miyake Famili and their relativs. Four of the
nine family members memtioned are women. demonstrating that women at   that time played a
major role in family management and rituals. Additionally it suggests  that the Miyake family was
able to strengthen their position through marriage and the   propagation of Buddhism. and gives an
insight  into the spread of Buddhism and central   government administration
 The  Kanaizawa Stela provides us with  a point  on the timeline in the spread of Buddhism in
Japan. and demonstrates the central government`s  reach into regional areas of eastern Japan.
 Due to its outstanding value in confirming the transfer of cultures within Eastern Asia.   the
Kanaizawa Stela was
designated  in  japan  as a Special Histoic Site in 1954. and 
recorded  on the  UNESCO register of  Memory of the World in 2017.


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 【日本語の解説文】
 金井沢碑は 奈良時代前半の神亀(じんき)3年 西暦726年に 三家氏(みやけし)と名乗る豪族が 仏教の教えで結びつき先祖の供養と 一族の繁栄を祈って建てた石碑です。
 石碑は輝石安山岩(きせきあんざんがん)の自然石で 高さは110㎝です。正面の平らな部分に 縦書きで9行 112文字が記されていますが 風化で読みにくい部分があります。
 自然石をあまり加工せずに使用しており 古代朝鮮半島の南東部にあった国 新羅(しらぎ)の石碑に にているものがあります。
 碑を建てた三家氏(みやけし)は 山上碑(やまのうえひ)に記された「佐野三家」(さののみやけ)を経営した豪族の末裔と考えられており 山上碑を造立した放光寺(ほうこうじ)の僧 長利(ちょうり)と関係の深い人物であると 考えられています。
 碑文には 三家氏(みやけし)を中心とした一族の名前が記されており 三家氏に続いて 妻の「他田君目頬刀自」(おさだのきみめずらとじ) 娘の「加那刀自」(かなとじ) 孫の「物部君午足」(もののべのきみうまたり)・「ひづめ刀自」・「若ひづめ刀自」と 同族とみられる「三家毛人」(みやけのえみし)・「知万呂」(ちまろ) の兄弟 鍛師(かぬち)の「磯部君身麻呂」(いそべのきみみまろ)の 全部で9人の名前がみえます。
 ここからは 女性が 結婚後も実家の氏(うじ)の名で呼ばれていること 子ども達と共に実家の祖先祭祀に参加していることなどがわかり 家族のつながりに 女性が大きな役割を果たしていたと 考えられます。
 碑文の1行目に登場する「群馬」の文字は 県内では最も古い事例であり 群馬県の名前のルーツを知る上でも たいへん重要な資料です。
 金井沢碑からは 古代東国での仏教の広がりや 家族関係の実態など 多くのことを 知ることが出来ます。
 金井沢碑は 東アジアの文化交流の様子を示す 重要な歴史資料として 1954年に 特別史跡に指定され 2017年には ユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
【約2分30秒】約650字

平成305月より設置された「多胡碑」覆屋の解説放送文(英語及び日本語)です
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 The  Tago  Stela  was erected  in  711  by  Hitsuji, who  wos  the first  Tago County  
 Magistrate, in  order  to commemorate  the  establishment of  the newly-formed  Tago  
 County.
The  inscription confirms  an  article in  the  Shoku-Nihongi, an  official history  of 
Japan, that Tago  County  was established  around  this time.
The  County Magistrae`s  name  Hitsuji suggests  that  he was  an  immigrant from 
abroad.  Indeed,  Tago County  was  a craft-productin  center  where immigrants  had 
settled,  bringing with  them  advanced technologies  from  the Korean  peninsula.
The  inscription on  the  stela  illustrates how the  central  government of  Japan  tried 
to  gain  control ovrr  this  industrial center  by  re-organizing regional  boundaries.
Due  to its  outatanding  value in  confirming  the 
  transfer  of cultures  within  Eastern Asia,  the  Tago
  Stela  was  designated in  Japan  as a  Special  Historie 
  Site  in  1954,  and  recorded on  the  UNESCO register  of 
  Memory of  the  World in  2017.

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 【日本語の解説文】
 多胡碑は 奈良時代初めの和銅4年 西暦711年に中央政府からの命令で 上野国(こうずけのくに)の片岡郡(かたおかのこうり)・緑野郡(みどののこうり)・甘良郡(からのこうり)の3つの郡(こおり)から 300戸を分けて 新たに 多胡郡(たごのこおり)を設置したことを記念して建てられた石碑です。
 碑文の 前半3行は 上野国に新たに多胡郡(たごのこおり)をつくり「羊」(ひつじ)という人物を 初代の郡(ぐん)長官に起用した と解釈されており 後半の3行には 当時の中央政府の高官の名前が記されています。
 牛伏砂岩(うしぶせさがん)と呼ばれる 硬質の砂岩でつくられており碑本体・笠石(かさいし)・台石(だいいし)から構成されています。 多胡碑のような形をした石碑は 古代朝鮮半島 南東部にあった国 新羅(しらぎ) にも 似たものがあります。
 笠石と台石を含んだ高さは 196センチ。前面の平らな部分に 縦書きで6行 80文字が記されています。
 日本の正史である「続日本記」(しょくにほんぎ)にも 多胡郡(たごのこおり)の建郡に関して 多胡碑と同様の記述がみられ 中央と地方における記述が一致する貴重な事例としても 知られています。
 多胡郡の置かれた地域は 古墳時代以降 ヤマト政権の直轄地である「屯倉」(みやけ)が置かれ 古くから中央とのつながりの深い地域でした。そのため 早くから渡来系の先進的技術が導入され 瓦などを生産する窯業(ようぎょう)や布生産などが 盛んに行われていました。多胡郡が設置されたことは 当時の政府がこの地域を重要な場所であると捉えていたことを 物語っています。
 多胡碑の文字は隋(ずい)や唐(とう)の時代の中国文化影響をうけたものと考えられています。江戸時代 朝鮮通信使を通じて 中国にも伝わり 日本の代表的な「書」のひとつとして 中国の書家にも高く評価されたといわれています。
 多胡碑は 東アジアの文化交流の様子を示す重要な歴史資料として 1954年に 特別史跡に指定され 2017年には ユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
 多胡碑の裏手には 資料館があり 上野三碑のレプリカや より詳しい解説動画をご覧いただけますので開館中に ぜひ お立ち寄りください。
【約3分30秒】約700字

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