これは碓氷峠でもあったろうか、加賀の殿様がカゴに乗ってあたりの風物をカゴの窓からながめていると、ツーンといいにおいが鼻にきた。
「これこれカゴを止めよ!」
殿様の声に、カゴが止まるとおつきの侍が、カゴのそばにより、「お召しにございますか」、
「そうじゃ、いま何ともいえぬタバコのいい香りがした。たれぞそこいらで、吸っているものはないか、調べてみよ」、さっそくかしこまって侍がこのあたりを捜すと、紅葉の下かげに老人が、うまそうにタバコを吸っているのを発見した。
「これこれお前か、タバコを吸っていたのは」
「これは、これは恐れいります。何とぞごかんべんを」
「いやいやとがめているのではない、殿様が聞きたいことがある様子だからついてまいれ」
老人が恐る恐るおカゴの前に土下座すると、「そのタバコいっぷく吸わせてみよ」と取り上げて吸ってみると、えもいわれぬ香りに殿様もすっかりご満足、「その方の持っているものをみな買い取ってつかわすぞ」、「ありがとうございます。これは私が働いた賃金の代わりにご主人からもらって来たもので、ここで大金になるとは、何ともありがとうございます」と老人は三拝九拝して礼をのべた。
「このタバコはどこで求めた」
「ヘエー。わたくしは越後の者で上州に出稼ぎにきて、山名の光台寺という寺で作男をしてタバコ製造にも働いていたものでごぜえます」と答えた。
殿様のおカゴはやがて碓氷峠を去ったが、タバコ呑め呑め空まで煙せ、どうせこの世はしゃくのたね、 煙り、煙り、煙れよ いっさい合切みな煙れ。
これはカルメンが歌ったタバコの歌であるが、殿様もカゴの中で、光台寺タバコを空までけむれと大いにふかしたことであろう。
これはのちの話であったが、この殿様が江戸城で、このタバコを三代将軍家光将軍に献じたところ、将軍も、これは珍しいうまいタバコだと嘉納あって、光台寺にタバコを献納するよう伝達があり、光台寺の住職相阿弥陀仏はその光栄にこおどりして喜んだ。
富士よりも高き山名の煙り草
御治世のたては煙草にのむ計り
応仁の戦ひ紙とたばこなり
これは川柳であるが、応仁の乱(1467年-1477年)が細川勝元(細川紙)と山名宗全(山名煙草)との戦いであったことに名産をしゃれたものであり館(たて)の煙草とは山名光台寺の西方3里の地が、片岡郡館(かたおかぐんたて/高崎市)で、ここにもたくさんタバコが製作され、館タバコとして知られていた。
受け出され館というもののみならひ
上州の館の煙草屋地切りにし
このころの女郎は薩摩のような上等品をのんでいた。吉原から見受けされれば上等はのめず館タバコを買ってのみ習った。館タバコは一般庶民用で上等ではなかった。
このように山名タバコは天下にその名を知られるようになったが、その耕作は相阿が人知れず苦心した結果によるもので、相阿が元和年間(1615年-1624年)片岡の里 館の佐藤家を訪れて、タバコの種子を譲り受け、寺の庭に植えたのがはじまり。境内の欅(けやき)の落ち葉などをしき込み苦心したため、薩摩産と比較されるまでに良質の葉がつくられ、このころは皆きざみにして売られ、これを切り粉といった。
他の伝記によると相阿弥陀仏は、のちに下野那須郡馬頭に移り、時宗香林寺の第三世住職となり、那須郡におけるタバコ創栽の恩人であるとも伝えられ、相阿の影像と伝えられるのが馬頭院に残っている。木彫立像は彩色され二尺四寸ばかりのもので、眉ひいで白髪を垂らし、やや堅い禅的な合掌をして、胸に袈裟文庫(けさぶんこ)ようの箱をかけているが、これがタバコの種子をいれたものだと伝えられる。墓地は旧光林寺裏山にあり、当山三代住相阿弥陀仏ときざまれている。
山名の光台寺は正慶二年(1333年)の創立で、宝暦年中(1758年7月22日)落雷のため焼失したのを第24代淳悦和尚が再建する。現在のものは明治百年記念(1968年)に改築された本堂である。
参考文献:「上州の史話と伝説」