山上碑・金井沢碑を愛する会

国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」である山上碑と金井沢碑の二碑が所在する高崎市南八幡地域(山名町・木部町・阿久津町・根小屋町)の住民で二碑の価値と郷土愛を深めるために2017(平成29)年7月30日に結成した『山上碑・金井沢碑を愛する会』のブログです。


指定種別

国指定特別史跡

名称

山上碑及び古墳(やまのうえひおよびこふん)

指定年月日

昭和29320日(史跡指定 大正1033日)

所在地

高崎市山名町
地図(地図情報システム)

参考ブログ

山上碑・古墳(歴歩№32)

山上碑の放送機器解説文

山上碑を学ぶ

動画「山上碑」

山王廃寺(放光寺)

 

山上碑は、 681年に立てられた日本最古級の石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に53字が刻まれています。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、母と自分の系譜を記して顕彰したものです。近隣の多胡碑・金井沢碑と合わせて上野三碑と呼ばれており、平成29(2017)1031日にはユネスコ「世界の記憶」に登録されました。

山上碑・古墳
山上碑


 

指定種別

国指定特別史跡

名称

金井沢碑(かないざわひ)

指定年月日

昭和29320日(史跡指定 大正1033日)

所在地

高崎市山名町
地図(地図情報システム)

参考ブログ

金井沢碑(歴歩№64)

金井沢碑の放送機器解説文

 金井沢碑を学ぶ

動画 金井沢碑

 

金井沢碑は、神亀 3726)年に立てられた石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に112字が刻まれています。古代豪族三家氏が、先祖供養のため造立したもので、三家氏は山上碑に記された「佐野三家」(ヤマト政権の地方支配拠点)を経営した豪族の末裔とみられます。近隣の山上碑・多胡碑と合わせて上野三碑と呼ばれており、平成29(2017)1031日にはユネスコ「世界の記憶」に登録されました。

金井沢碑


 

指定種別

高崎市指定史跡

名称

山名城址(やまなじょうし)

指定年月日

昭和48131日(二の丸)
昭和61213日(本丸を追加指定)

所在地

高崎市山名町
地図(地図情報システム)

参考ブログ

山名城址(歴歩№39)

 

 高崎市の観音山丘陵と呼ばれる丘の上に、5ヵ所の城址が分布しています。

寺尾上(てらおかみ)城、寺尾中(てらおなか)城、茶臼山(ちゃうすやま)城、根小屋(ねごや)城、そして山名(やまな)城です。

このうち、山名城の本丸と二の丸部分は高崎市の史跡に指定されています。

山名城址


 

指定種別

市指定史跡

名称

来迎阿弥陀画像板碑(らいごうあみだがぞういたび)

指定年月日

昭和48216

所在地

高崎市山名町

地図(地図情報システム)

参考ブログ

来迎阿弥陀画像板碑(歴歩№30)

  

剣菱形の緑泥片岩の板碑の上半に、薄肉彫りで右斜めを向いた阿弥陀如来一尊を刻んでおり、下半には、中央に「健治四年正月 日」と紀年銘を刻み、その両側に一対の花瓶(二具足)を線刻している。二条線は剥落したのか明らかでない。高さ97.5センチ、幅33センチ、厚さ5センチの一般的な大きさである。阿弥陀如来の顔は右斜め下にむかい、頭部には放射状の頭光(輪光)を線刻しており、印相は右手を上げ左をたれた来迎印を結び、踏み割り連坐の上に立っていて、信迎者の臨終にあたってこれを極楽浄土に向かえる阿弥来迎の型をとっている。銘文の健治四年は西暦1278年、鎌倉時代中期の造立である。板碑は、鎌倉中期にあらわれ、戦国時代ころまでつくり続けられる。五輪塔などの墓標とあわせて建てられたので、年回などの際に建てられる現在の卒塔婆にあたる。一般的には、弥陀一尊や三尊(脇侍の観音・勢至両薩をともなう)を種子(梵字)で刻んでおり、浄土教のこの地方への流布を知ることができます。

阿弥陀画像


 

指定種別

高崎市指定史跡

名称

山名古墳群(やまなこふんぐん)

指定年月日

平成432
平成6322日(追加指定)

所在地

高崎市山名町
地図(地図情報システム)

参考ブログ

山名古墳群(歴歩№22)

山名古墳群の推移(歴歩23)

山名伊勢塚古墳(歴歩24)

山名古墳群出土の副葬品(歴歩25)

山名原口Ⅱ遺跡Ⅰ号墳(歴歩21)

 

山名古墳群は6世紀中頃~7世紀前半(古墳時代後期から終末期)につくられた古墳群です。平成1318年度にかけて古墳群の発掘調査が実施され、史跡地内に前方後円墳である山名伊勢塚古墳のほか、帆立貝形古墳1基、円墳14基、形態不明1基の合計17基の古墳があることがわかりました。 

山名伊勢塚古墳は2段築成の前方後円墳で、墳丘全長が65mあることが確認されました。出土遺物等から、6世紀後半に造られたと考えられています。また、石室は近隣の岩野谷丘陵(観音山丘陵)から産出する凝灰岩を使用した削石積横穴式石室であることもわかりました。

山名原口Ⅱ-2号墳の横穴式石室は模様積みと呼ばれる石の積み方をしており、発掘調査の際には鉄鏃・馬具・玉類など多くの副葬品が出土しました。この石室は、現在史跡地内に保存されており見学することができます。 

山名古墳群


 

指定種別

高崎市指定重要文化財

名称

山名八幡宮算額
(やまなはちまんぐうさんがく)

指定年月日

昭和50131

所在地

高崎市山名町(山名八幡宮)
地図(地図情報システム)

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山名八幡宮 (歴歩№4)

 

この算額は明治181885)年に、関流八傳岸幸太郎充豊が奉納したものです。額の上部に序文一編と算題7問があり、その下に4段にわたって門下生279名の名が記されています。門人の住所を見ると、地元の山名、木部(きべ)、阿久津(あくつ)、根小屋(ねごや)の人は11名だけで、他は現在の吉井、藤岡地区の人たちです。

序文の選者(せんじゃ)と揮毫者(きごうしゃ)は美土里(みどり)の文人謙斉小林重英で、左下には世話人10人の名があり、八幡宮神主父子の名もみえます。末尾には大工2名の名も記されていますが、そのうちの伊藤子之吉高成は、額面の右翼にも大書きされている立派な算学者(さんがくしゃ)であったそうです。

山名八幡宮算額

       

 

指定種別

高崎市指定重要文化財

名称

光台寺線刻地蔵菩薩立像石仏
(こうだいじせんこくじぞうぼさつりゅうぞうせきぶつ)

指定年月日

昭和56213

所在地

高崎市山名町(光台寺)

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龍玉山「光台寺」(歴歩№15)

 

光台寺は時宗(じしゅう)の寺で、江戸時代には、タバコの名産地として名高かった寺です。境内の一角に石仏があります。安山岩の一面を平に加工し、上半に立像の地蔵菩薩を線彫りし、下半に波永享9624日と造立(ぞうりゅう)の日付が刻まれています。

永享9年は、室町時代で西暦1437年にあたります。すでに500年以上の歳月を、風雨にさらされてきたことになりますから、風化がはげしく、地蔵のお姿や年号が辛うじて見える程度になっているのは残念なことです。寺や地元では、あたご様(将軍地蔵)と伝えていますが、中世の地蔵信仰※を知る貴重な資料です。
光台寺愛宕様


 

指定種別

高崎市指定重要文化財

名称

玄頂寺の康永二年銘五輪塔
(げんちょうじのこうえいにねんめいごりんとう)

指定年月日

平成6322

所在地

高崎市阿久津町(玄頂寺)
地図(地図情報システム)

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大翁山「玄頂寺」(歴歩№79) 

 

この塔は南北朝時代の康永21343)年に造立されました。銘文の書き出しの部分に「逆修※」と刻まれているので、この塔の造立者が生前に、自分の死後の供養をさかのぼっていとなむ逆修塔であることがわかります。高崎市内に現存する五輪塔としては、小八木町妙典寺塔(鎌倉時代)、山名町今井家墓地塔3(鎌倉時代)に次ぐ古さです。しかし、前述の4基の塔は風化が著しく、また銘文も無いため、完形で、造立年代がはっきりしている五輪塔としては、玄頂寺塔が市内最古となります。

玄頂寺の五輪塔


 

指定種別

高崎市指定重要文化財

名称

山名八幡宮本殿・幣殿(やまなはちまんぐうほんでん・へいでん)

指定年月日

平成7324

所在地

高崎市山名町(山名八幡宮)
地図(地図情報システム)

参考ブログ

八幡宮「一の鳥居・石碑の碑」(歴歩2)

馬庭念流太刀割石(歴歩3)

山名八幡宮 (歴歩№4)

 八幡宮「随神門・手水舍」(歴歩5)

八幡宮「本殿・幣殿」 (歴歩№6)

 「裏神様・弁財天」(歴歩7)

「神馬・山名宗全碑」(歴歩8) 

 「頌徳碑及び記念碑」(歴歩9)

「陰陽神木」(歴歩10) 

 

山名八幡宮は社伝によれば、源氏の一族、新田氏の祖義重の子義範が山名城にあって、安元年中(11751177)に豊前の国(大分県)の宇佐八幡を勧請して、社殿を造営し、武神として崇敬したのを始めとしています。

玉依比売命(たまよりひめのみこと)、品陀和気命(ほんだわけのみこと:応神天皇)、息長足姫命(おきながたらしひめみこと:神宮皇后)の三柱を祭柱として祀り、古くから安産や子育ての守護神として、また養蚕や商売繁昌の神として有名です。

山名八幡宮本殿・幣殿


 

指定種別

高崎市指定重要文化財

名称

上野三碑考と諸大家書簡集 (しょたいかしょかんしゅう)

指定年月日

昭和46218日 

所在地

高崎市山名町

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光台寺の煙草・白満 (歴歩№16)

『三碑考』と木部白満

上州倉賀野宿

 

上野三碑考:上野三碑として有名な山上碑・多胡碑・金井沢碑の研究論文集で、三碑の研究書としては最初のものです。本居宣長の門下で常陸国の古学者岡庭真垣と、山名の旧家に生まれた木部白満(つくもまろ)通称直右ヱ門(17751841)が文政21819)年に出版した。

三碑考 

諸大家書簡集:木部白満は、手紙を通じて諸国の文人と親交を深めていましたが、文政101827)年にそれらの書簡を自ら整理したのが、「諸大家書簡集」です。その主な相手は屋代弘賢、富田永世、筥田茂嗣、岡庭真垣、小田又蔵、加部誠斎、清水浜臣、一宮照庭、狩谷掖斎(えきさい)、梶山伯彭、谷 文晁(ぶんちょう)、持田好古、市河米庵(いちかわべいあん)、町田延陵、栗田国雄などですが、当代一流の学者や芸術家の名が見えます。


 

指定種別

高崎市指定重要無形民俗文化財

名称

阿久津の獅子舞(あくつのししまい)

指定年月日

平成23420

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阿久津の獅子舞(歴歩№82)

  

阿久津町の獅子舞の流派は稲荷流で、舞は獅子(前・中・後)3人、カンカチ1人、笛吹き数人その他で構成される。曲目は、三拍子・ぼんでん・花吸い・まり・つるぎ・笹がかり・岩くずし・雌獅子がくしがある。

那須の獅子舞(甘楽郡甘楽町秋畑)・藤原の獅子舞(利根郡みなかみ町)とともに県内稲荷流三宗家の一つといわれる。伝承では大化元年(645)に極上興兵衛が舞をはじめ、それが阿久津に伝えられたものという。かつては獅子舞の由来を示す古文書があったが、明治43年(1910)に大洪水にあい流出した。しかし、昭和初期に由来書を筆写したといわれる巻物が伝わっている。

阿久津獅子舞・1

種別

史跡看板

名称

木部駿河守範虎廟所(きべするがのかみのりとらびょうしょ)

設置場所

龍谷山金清院「心洞寺」 

所在地

高崎市木部町

参考ブログ

龍谷山心洞寺(歴歩№70)

木部駿河守範虎(歴歩№71) 

高崎市木部町にある曹洞宗、龍谷山金清院心洞寺は、天正元(1573)年鬼石町浄法寺の永源寺三世漱恕全芳大和尚を開山、木部駿河守範虎を開基として創建されました。範虎は木部の地に居を構えていたことから、現在でも地域の人々からは「木部様」と呼ばれ親しまれています。毎年41日には範虎の威徳を称え、また地域の平穏を願い法要を営んでいます。寺の境内は木部氏の館跡で、山門を中心に東西に石垣と土塁の一部が残っています。左手奥の大ケヤキの根元に廟所が建立されており、五輪塔は範虎の墓といわれています。(戒名は全清院殿心洞芳傅居士)右脇に並んでいる墓石は範虎に仕えた家臣のものです。範虎の内室は箕輪城主長野業政の娘で、武田氏に攻め込まれた際に榛名湖にて入水し龍に化身となった「木部姫伝説」の主人公(戒名龍體院殿天生證真大姉)です。

木部駿河守
木部駿河守・1

 

種別

史跡看板

名称

「お染久松」お染のお墓

設置場所

山名山「安楽寺」

所在地

高崎市木部町

参考ブログ

山名山「安楽寺」(歴歩№73) 

安楽寺のお染久松

高さ84cmの舟形石塔で、阿弥陀の立像が刻され、その両脇に「一窓貞巡大姉」「元禄十四辛巳年正月廿一」とあり、この墓には、浄瑠璃で有名な「お染久松」伝承があります。「お染久松」とは、宝永五 (1708) 年大阪の商家の娘お染と丁稚久松との心中事件が、浄瑠璃や歌舞伎などに様々な形で脚色された話の通称です。二人の関係は諸説ありますが、近松半二作「新版歌祭文・野崎村の段」が良く知られています。ここ木部の豪商萩原甚右衛門が江戸に出した「いかだや」闍に、お染という美しい娘がおり、奉公人と恋の花が咲いたということで、「お染久松」として当地へ伝えられたのではないかと思われます。昔から木部では哀しき若き二人の悲恋を察してか、芝居の出し物に「お染久松」を使わなかったそうです。また、このお染の墓は「恋愛成就」と「耳の病気に効く」とも言われています。

お染久松
お染久松・1

 

種別

史跡看板

名称

設置場所

山ノ上地蔵尊

鎌倉街道山本里「三本辻」

所在地

高崎市山名町

参考ブログ

山ノ上地蔵尊(歴歩№28)

鎌倉街道・山本宿(歴歩№29)

古の鎌倉街道は、ここから東にあたる山名八幡宮からこの三本辻に向かっていったと思われます。この辺りは山本宿と呼ばれ賑やかだったと伝えられています。街道の辻や宿の出入口には、旅人の往来安全と地域を見守る信仰の塔や石仏などが建てられましたが、この地蔵もその類として設けられたと思われます。起源は定かではありませんが、高さが1.5mほどあり珍しい座像の地蔵像です。「お陰地蔵」の異名もあり、現在も地域の見守り地蔵として、八月の三と四のつく日(3日・4日・13日・14日・23日・24)に夜祭が祭行されています。隣にある百万遍供養塔は、昔、集落に疫病が流行ったとき山名光台寺より大数珠を借りて、三日三夜この地で念仏を唱えると疫病は退散したと言われます。その他、双胎道祖神や庚申塔などが集められています。

山ノ上地蔵尊
山ノ上地蔵尊・1

 山上碑・金井沢碑を愛する会は、令和3年5月8日(土)14時から南八幡公民館で、役員会を開催しました。新型コロナウイルスの影響で総会は書面開催となりましたが、役員が改選されましたので、新年度スタートに当たり、2021(令和3)年度の計画について、佐藤隆夫 新会長を始め、髙山泰一 副会長、田口照夫 副会長、笠原和男 副会長ら、世話人、事務局メンバーの16人が意見交換をおこないました。
 なお、会議後半に、上野三碑の紹介ビデオを見て、基本的なことを改めて学びました。新たなメンバーで今後もよろしくお願いいたします。

開 会

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新会長・副会長
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新会長の挨拶
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役員・世話人
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山上碑・金井沢碑を愛する会は、令和3年3月27日(土)14時から南八幡公民館で、役員会を開催しました。

令和3年度を迎えるに当たり、令和2年度の振返りと新年度の計画、定期総会について、正副会長と世話人、事務局メンバーの15人が意見交換しました。

協議の結果、令和3年度の総会は新型コロナウイルスの感染防止のため書面開催と決定し、昨年同様に議案書を会員に配付することとしました。

また、今回の議案で役員改選が行われ正副会長が交代することになりました。

小嶋博会長、飯島重信副会長、丸山吉治副会長、宮原佐一郎副会長、4年間大変お世話になりました。ありがとうございました。

小嶋博会長


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令和21028日(水)から126日(日)まで、多胡碑記念館において、第42回企画展「金井沢碑の遺産」(古代豪族と仏教)が開催されています。

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上野三碑レプリカ
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金井沢碑レプリカ
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金井沢碑石材
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那須国造碑・多賀城碑・多胡碑の拓本
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多賀城碑・那須国造碑のレプリカ
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山上碑・金井沢碑を愛する会は、令和2年11月28日(土)14時から南八幡公民館で、役員会を開催しました。

令和2年度もおよそ半分を経過したところで、今までの振返りと今後の方針について、正副会長と世話人、事務局メンバーの15人が意見交換しました。

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   1121日(土)午前9時30分~12

山上碑・金井沢碑を愛する会と上野三碑ボランティア会は共催で、金井沢碑周辺の史跡めぐりを実施しました。

参加者は新型コロナウイルスの感染防止を考慮し少数の15名を募集し、2班に分かれて史跡を訪ねました。

当会会員と上野三碑ボランティア会会員が案内役を務め、金井沢碑のほか、白山神社、白髭神社、地域内の道祖神などを訪ねました。

参加者

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出発前の挨拶
2
白山神社
3
金井沢碑
4
11月13日 白髭神社での予行演習
5
11月13日 白山神社での予行演習
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