金井沢碑への案内チラシの作成
山上碑への案内チラシの設置
「三碑考」と木部白満
『三碑考』は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」である、「山上碑」・「多胡碑」・「金井沢碑」の考察論文集で、今から202年前の文政2(1819)年に、本居宣長の門下で常陸国の古学者岡庭真垣と、木部白満(きべつくもまろ)により出版された上野三碑研究本としては国内最古のもので、高崎市重要文化財(昭和46年2月12日)に指定されています。
「木部白満」(きべつくもまろ)は、江戸時代の文雅人で安永5(1776)年に現在の高崎市山名町の豪農の家に生まれた。白満は通称直右ヱ門(1776生~1841没)、幼名を梅吉。父善蔵はこの土地名産の光台寺煙草の仲買人で、江戸日本橋の港屋仁左衛門と取引をし、大いに財をなしたという。白満は長男であるが母が早く没し、後妻に弟三十郎が生まれたので、家督を弟三十郎に譲り倉賀野町へ出て旅籠屋「藤浪屋」を始めた。学問好きな白満は、来客者の学問のある人や文人と交際、中でも訪れる吾妻の町田延陵を師として成長し、ひとかどの学者となった。白満が自ら整理した『諸大家諸簡集』によると、屋代弘賢(ひろかた)、清水浜臣(はまおみ)、狩谷掖斎(えきさい)、谷文晁(ぶんちょう)らの名があり、当時の一流の文雅人と親交していたことがわかる。白満の名を今にとどめているのは三碑研究書として最初の『三碑考』という山上碑・多胡碑・金井沢碑の考察論文集をだしたことです。また、江戸の学者狩野掖斎から「和名抄」の郷名について意見を聞かれるほど、白満の学識は認められていという。この「三碑考」は文政2(1819)年に版行されている。これは郷土の学者による最初の上野三碑の考察論文集です。
「三碑考」多胡碑(1)編
「三碑考」多胡碑(2)編
「三碑考」金井沢碑遍
「三碑考」山上碑遍
木部白満の墓
山上碑周辺の除草作業
案内看板の設置会報
山上碑案内板の設置
鏑川白鳥を守る会への協力
山上碑周辺の清掃活動
令和3年7月16日(金) 午前9時~10時30分、高崎市山名町の『山上碑』周辺の清掃活動を実施しました。今回の清掃活動には、「山上碑・金井沢碑を愛する会」、「上野三碑ボランティア会」及び高崎市役所職員の合計23人が協働して実施しました。
あいさつ
参加者
除草作業開始
作業中
作業終了
会報第8号 上野三碑かるた特集(改訂)
南八幡地域の文化財等一覧
高崎市南八幡地域には、国指定特別史跡2カ所、高崎市指定史跡3カ所、高崎市指定重要文化財5か所、高崎市指定重要無形民俗文化財1件、史跡看板3か所があります。
【国指定特別史跡】
【高崎市指定史跡】
【高崎市指定重要文化財】
【高崎市指定重要無形民俗文化財】
【史跡看板】
【特別史跡】山上碑及び古墳
指定種別 |
国指定特別史跡 |
名称 |
山上碑及び古墳(やまのうえひおよびこふん) |
指定年月日 |
昭和29年3月20日(史跡指定 大正10年3月3日) |
所在地 |
高崎市山名町 |
参考ブログ |
山上碑は、 681年に立てられた日本最古級の石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に53字が刻まれています。放光寺の僧である長利が、亡き母の黒売刀自を供養するとともに、母と自分の系譜を記して顕彰したものです。近隣の多胡碑・金井沢碑と合わせて上野三碑と呼ばれており、平成29(2017)年10月31日にはユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
【特別史跡】金井沢碑
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指定種別 |
国指定特別史跡 |
名称 |
金井沢碑(かないざわひ) |
指定年月日 |
昭和29年3月20日(史跡指定 大正10年3月3日) |
所在地 |
高崎市山名町 |
参考ブログ |
金井沢碑は、神亀 3(726)年に立てられた石碑で、高さ111センチの輝石安山岩の自然石に112字が刻まれています。古代豪族三家氏が、先祖供養のため造立したもので、三家氏は山上碑に記された「佐野三家」(ヤマト政権の地方支配拠点)を経営した豪族の末裔とみられます。近隣の山上碑・多胡碑と合わせて上野三碑と呼ばれており、平成29(2017)年10月31日にはユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
【指定史跡】山名城址
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指定種別 |
高崎市指定史跡 |
名称 |
山名城址(やまなじょうし) |
指定年月日 |
昭和48年1月31日(二の丸) |
所在地 |
高崎市山名町 |
参考ブログ |
高崎市の観音山丘陵と呼ばれる丘の上に、5ヵ所の城址が分布しています。
寺尾上(てらおかみ)城、寺尾中(てらおなか)城、茶臼山(ちゃうすやま)城、根小屋(ねごや)城、そして山名(やまな)城です。
このうち、山名城の本丸と二の丸部分は高崎市の史跡に指定されています。
【指定史跡】来迎阿弥陀画像板碑
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指定種別 |
市指定史跡 |
名称 |
来迎阿弥陀画像板碑(らいごうあみだがぞういたび) |
指定年月日 |
昭和48年2月16日 |
所在地 |
高崎市山名町 |
参考ブログ |
剣菱形の緑泥片岩の板碑の上半に、薄肉彫りで右斜めを向いた阿弥陀如来一尊を刻んでおり、下半には、中央に「健治四年正月 日」と紀年銘を刻み、その両側に一対の花瓶(二具足)を線刻している。二条線は剥落したのか明らかでない。高さ97.5センチ、幅33センチ、厚さ5センチの一般的な大きさである。阿弥陀如来の顔は右斜め下にむかい、頭部には放射状の頭光(輪光)を線刻しており、印相は右手を上げ左をたれた来迎印を結び、踏み割り連坐の上に立っていて、信迎者の臨終にあたってこれを極楽浄土に向かえる阿弥来迎の型をとっている。銘文の健治四年は西暦1278年、鎌倉時代中期の造立である。板碑は、鎌倉中期にあらわれ、戦国時代ころまでつくり続けられる。五輪塔などの墓標とあわせて建てられたので、年回などの際に建てられる現在の卒塔婆にあたる。一般的には、弥陀一尊や三尊(脇侍の観音・勢至両薩をともなう)を種子(梵字)で刻んでおり、浄土教のこの地方への流布を知ることができます。