山上碑・金井沢碑を愛する会

国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」である山上碑と金井沢碑の二碑が所在する高崎市南八幡地域(山名町・木部町・阿久津町・根小屋町)の住民で二碑の価値と郷土愛を深めるために2017(平成29)年7月30日に結成した『山上碑・金井沢碑を愛する会』のブログです。

1
2

2021(令和3)年12月19日(日)が年内の案内もてなし活動の最終日でした。

2022(令和4)年は、1月9日(日)からです。

31日には、山上碑あずま屋の横に 上野三碑をつなぐ会 が作製した、母への手紙を投入するポストが設置されています。

山上碑 木道
3
山上碑あずま屋横には「母想いポスト」が設置されています
4
山上碑 石段
2
金井沢碑の案内もてなし活動
1

諸大家書簡集(しょたいかしょかんしゅう)は、上野三碑考」 とともに、昭和46218日に高崎市指定重要文化財に指定された書簡集です。木部白満は、天保時代に倉賀野で「藤浪屋」という旅籠屋を営んでいました。そこで手紙を通じて諸国の文雅人と親交を深めていましたが、文政101827)年にそれらの書簡を自ら整理したのが、「諸大家書簡集」です。その主な相手は、屋代弘賢、狩谷掖斉、清水浜臣、谷文晁、市河米庵、町田延陵等です。白満の学識と当代文雅人との交流がうかがえる重要な資料です。

1
2
3
4
5
6
7
8

屋代 弘賢(やしろ ひろかた)宝暦81758)年 - 天保121841)年は、江戸時代後期の幕府御家人(右筆)・国学者。江戸神田明神下の幕臣屋代忠太夫佳房の子。通称は太郎。号は輪池。初名は詮虎。

狩谷 棭斎(かりや・えきさい)安永41774) 年- 天保61835)年は江戸時代後期の考証者(今日の書誌学・文献学)である。名は望之、字は卿雲、通称は津軽屋三右衛門(11代目)、別号を求古楼。戒名は常関院実事求是居士。

清水 浜臣(しみず はまおみ)安永51776)年 - 文政71824)年)は、江戸時代後期の医師、歌人、国学者。通称は玄長。号は泊洦舎、月齋など。姓は藤原。子に清水光房。

谷文晁(たに ぶんちょう)宝暦131763) 年-天保111841)年)は、江戸時代後期の日本の画家。名は正安。はじめ号は文朝・師陵、後に文晁とし字も兼ねた。通称は文五郎または直右衛門。別号には写山楼・画学斎・無二・一恕。薙髪して法眼位に叙されてからは文阿弥と号した。江戸下谷根岸の生まれ。

写真提供:木部弘毅氏

天保時代(18031843)倉賀野宿には旅籠屋が32軒あり、この旅籠屋で有名なのは「藤浪屋」でした。主人は、木部白満(つくもまろ)こと直右衛門で「上信日記」にも、『倉賀野にいたり着きぬ、ここの宿に藤浪屋と家号呼びて木部白満というふる事好むをのこ有りけり、彼二つの古墳をも早くすりとりと聞けば、彼がもとにとひとる、あるじ喜び二つの碑をとうでておのれにとらせたり』とあります。白満は客に山上碑、金井沢碑の碑文を石刷りしたものを与えており、当時の一流の文雅人と親交していたことがわかります。白満の名を今にとどめているのは三碑研究書として最初の「上野三碑考」という多胡碑・山上碑・金井沢碑の考察論文集をだしたことです。

9
10
11
12
13
14
15
16

木部白満は直右衛門の号であり安永4(1775)年に多野郡山名村(現高崎市山名町)の豪農木部善蔵の長男として生まれました。父善蔵はこの土地名産の葉煙草の仲買人で、江戸日本橋の港屋仁左衛門と取引をし、大いに財をなしました。白満は、弟三十郎に家督をゆずり倉賀野宿にでたもので、墓は、山名町の「光台寺」にあり、裏面に『むつきたち又のむつきに 咲にほふ 梅をはなれず 鶯なくも』白満 天保121841)年辛丑閏正月十七日とあります。

写真提供:木部弘毅氏

令和31128()午後2時から、南八幡公民館において山上碑・金井沢碑を愛する会2021(令和3)11月役員会が開催されました。役員会の議題は、(1)2021(令和3)年度の上半期活動状況(2)予算執行状況(3)下半期の活動についての協議、ビデオ(ふるさと群馬県)の視聴を行いました。

会長挨拶
1
役員会議
2
3
4
ビデオ(ふるさと群馬県)視聴
5
6
7
8

11月7日()秋晴れのもと、高崎市中央地区区長会の13名の区長さん方が、石碑の路のハイキングを行いました。ルートは、山名駅(10:09発)~八幡宮~山上碑~山名城址~根小屋城址~金井沢碑(14:20)の石碑の路のフルコースでした。
山上碑・金井沢碑を愛する会では、山上碑から根小屋城址までは佐藤隆夫会長以下5名の午前班で、根小屋城址から金井沢碑までは4名の午後班で、ルートの案内と途中の万葉歌碑などの説明をして、金井沢碑まで同行しました。

1
山上碑
東屋
2
山上碑
の見学
3
4

1
2
3
4
5
金井沢碑入口の東屋到着
6
金井沢碑の見学
7
参加者の集合写真
9

10月31日(日)上野三碑では、「世界の記憶登録4周年」を記念して、覆屋(おおいや)の扉を開け特別公開をおこないました。今年は新型コロナウイルスの影響で、2年ぶりの公開となり多くの見学者が山上碑、金井沢碑を訪れました。見学者数は山上碑が86人、金井沢碑が79人でした。「山上碑・金井沢碑を愛する会」も、会員が東屋で「会報:上野三碑かるた特集」を見学者に配付し、もてなし活動を行いました。

山上碑東屋での「もてなし活動」
山上2
山上古墳の解説
山上1
山上碑の解説
1
金井沢碑の解説

令和3年10月26日(火) 佐藤会長外役員により、上信電鉄「根小屋駅」に金井沢碑までの案内チラシを設置いたしました。
1
2
3
4
5
6
7

「山上碑・金井沢碑を愛する会」では、上信電車を利用して根小屋駅から金井沢碑を訪れる人、また金井沢碑から根小屋駅へ行き電車に乗る人達のため、根小屋駅から金井沢碑までのルートを案内したチラシを作成しました。裏面には「高崎自然歩道ガイドマップ」の山上碑と金井沢碑間のルートも掲載し「石碑の路」も紹介しています。
なお、このチラシは、根小屋駅や金井沢碑の東屋などに配付します。

表
裏面
裏

令和3927() 「山上碑・金井沢碑を愛する会」の役員が、上信電鉄「山名駅」及び「山名八幡宮」に山上碑までの近道を案内するチラシを設置しました。

1
2
4
5
3

『三碑考』は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」である、「山上碑」・「多胡碑」・「金井沢碑」の考察論文集で、今から202年前の文政2(1819)年に、本居宣長の門下で常陸国の古学者岡庭真垣と、木部白満(きべつくもまろ)により出版された上野三碑研究本としては国内最古のもので、高崎市重要文化財(昭和46212日)に指定されています。

2

「木部白満」(きべつくもまろ)は、江戸時代の文雅人で安永5(1776)年に現在の高崎市山名町の豪農の家に生まれた。白満は通称直右ヱ門(1776生~1841没)、幼名を梅吉。父善蔵はこの土地名産の光台寺煙草の仲買人で、江戸日本橋の港屋仁左衛門と取引をし、大いに財をなしたという。白満は長男であるが母が早く没し、後妻に弟三十郎が生まれたので、家督を弟三十郎に譲り倉賀野町へ出て旅籠屋「藤浪屋」を始めた。学問好きな白満は、来客者の学問のある人や文人と交際、中でも訪れる吾妻の町田延陵を師として成長し、ひとかどの学者となった。白満が自ら整理した『諸大家諸簡集』によると、屋代弘賢(ひろかた)、清水浜臣(はまおみ)、狩谷掖斎(えきさい)、谷文晁(ぶんちょう)らの名があり、当時の一流の文雅人と親交していたことがわかる。白満の名を今にとどめているのは三碑研究書として最初の『三碑考』という山上碑・多胡碑・金井沢碑の考察論文集をだしたことです。また、江戸の学者狩野掖斎から「和名抄」の郷名について意見を聞かれるほど、白満の学識は認められていという。この「三碑考」は文政2(1819)年に版行されている。これは郷土の学者による最初の上野三碑の考察論文集です。

吉永哲郎著「高崎人物伝」より

3
4

5
6
7
8
9

10
11
12
13
14

15
16
17
18
19

20
21
22
23
このブログは木部弘毅氏の協力により作成しました。

木部白満(きべつくもまろ)の墓は、山名町の光台寺にあります。墓石は変型菱型の自然石で、高さ125cm、横110cm、厚さ30cm。正面に「木部白満之墓」、裏面に『むつきたち又のむつきに 咲にほふ 梅をはなれず 鶯なくも』白満 天保121841)年辛丑閏正月十七日とあります。白満の墓の前には、馬庭念流樋口定輝に学び免許皆伝を得た弟の木部三十郎の墓もあります。弟三十郎は黒澤明監督の「椿三十郎」のモデルではと、話題になったことがあります。

(「群馬の墓めぐり」萩原進著)

DSC06423

令和3916() 午前9時から「山上碑金井沢碑を愛する会」会員11人及び高崎市文化財保護課職員3人が、山上碑周辺の除草作業を実施しました。

1
2
3
4
5
6
7
8

img533

令和3829() 午前9時から「山上碑・金井沢碑を愛する会」役員5名が、山名八幡宮から市営住宅南側道路までの間に4枚の案内板を設置しました。

1
山名八幡宮北側道路
2
3

忠霊塔前道路

4

5
6

山名台団地入口交差点

7

看板設置完了(市営住宅南側道路)

8

↑このページのトップヘ